匂う森

〜 化学シグナルによる種を越えた参加型嗅覚バイオーム 〜

展覧会名: Aerosculpture ver.2 〜匂う森〜
場所:夢の島熱帯植物館
期日:2026年1月30日〜2月1日

Olfactory Biome は、嗅覚によって構造化された生態系を探る、サイトスペシフィックな環境インスタレーションである。熱帯植物の温室内において、異なる種を引き寄せたり、遠ざけたり、混乱させたりする香りのシグナルによって形成される、目に見えないバイオームを体験化する。

体験は、夜の森を歩く感覚を想起させる。空間はほぼ完全な暗闇に保たれ、温室には月明かりが差し込む。視覚が頼りにならなくなるにつれ、知覚は身体を通して再編成される。意識はあらゆる方向へと広がり、嗅覚が活性化される。足の裏や耳が、まるで目のように機能しはじめる。ホタルを思わせる小さな点滅する光が、最小限の方向感覚を与える。

空間に入る前に、参加者は蛾・コウモリ・人間のいずれかの役割を選び、引き寄せたり忌避させたりする香水を調香する。それを身体にまとい、移動するシグナルの発信源となる。あらかじめ空間に設置された香りはミストやフォグといった粒子に乗って漂い、ときに見え、ときに見えないかたちで参加者を誘い、惑わせる。

自然の生態系において、生物は絶えず化学的シグナルを交換している。花は揮発性化合物を放出して花粉媒介者を引き寄せ、蛾やコウモリなどの動物はフェロモンや餌の匂いに反応する。また植物は損傷を受けると警告シグナルを放出する。こうした目に見えないやり取りは、生態学的コミュニケーションの大気的な層を形成している。

本インスタレーションは、あらゆる年齢の観客を、こうした化学シグナルの大気的なフィールドへと積極的に参加させることを試みる。さらに音響環境は、蛾が捕食を避けるために超音波のクリック音を発してコウモリのエコーロケーションを妨害するかのように、反響の変化を通して観客が互いの動きを感知できるよう設計されている。

視聴覚的なスペクタクルによって圧倒するのではなく、Olfactory Biome は内的な感覚への没入を促す。嗅覚を前面化することで、本作は嗅覚による環境知を探求し、変化する生態環境を感知し適応するための「嗅覚知」および「嗅覚的レジリエンス」を提案する。


Resource:

CCBT イベントページ:
https://renewal.ccbt.rekibun.or.jp/ja/events/biome-of-scent

観覧の手引き (Google Doc):
https://docs.google.com/document/d/10yL7i4G4LHS-x38ShiQxH6deM1U6XKuIrovRcDTW9xA/edit?usp=sharing

匂う森―交信しあい連関する夢―

金原弓起(きんばらゆき)/  詩人

 「どうも匂うな」「すこしきな臭い」――こうした台詞を、わたしたちは物語や劇などでたまに耳にすることがある。これは、実際に臭気が漂っているというよりも、登場人物の言動や場の状況に怪しい点のある場面や、まだ表面化していないが裏に何かが隠されていそうな場面などで使われる言葉だ。

 顕在的な〈もうすでに現われてしまった〉フィールドで主力を発揮する視覚に対し、嗅覚はというと、もっと奥まって潜在的な〈まだ現われていない〉世界にも守備範囲を広げている印象がある。いったいなぜなのだろう? 

答えは簡単には見つからなさそうだけれど、先日、ある薄闇の中で、それを解き明かす暗号めいたものに出合ってしまった。

 

 2026年1月30日~2月1日、夢の島熱帯植物館の巨大ドーム内で開催された「Aerosculpture ver.2『匂う森』」というインスタレーション。これは、嗅覚アーティストの上田麻希さんによる夜間の展覧会だ。通常は立ち入ることの出来ない薄暗い植物館が舞台だなんて、もうそれだけで密林っぽさと神秘性を感じるが、この展覧会ではさらにわたしたちの〈野生の知覚〉を触発するさまざまな仕掛けが、生い茂る熱帯の森の中にしのばせられていた。

 最初の仕掛けは、展示会場外のエントランスで開催された「メッセージとしての香り―交信フレグランス」という調香のワークショップ。ここで来場者は、めいめいの気分に合わせて香りのレシピを作成し、自ら調合したフレグランスを一本ずつ手にする。――と書くと、なんだか芳香の漂う香水瓶を想像するかもしれないが、ここで来場者が作るのは、「ガ」か「コウモリ」か「人間」になりきった自分が、同じく「ガ」か「コウモリ」か「人間」のいずれか(あるいはそのぜんぶ)をおびき寄せたり、遠のけたりするための特殊な香りのスプレーである。材料として用意されていたのは、メスのガのフェロモンの匂い成分や、コウモリが好むという夜の花の成分のほか、植物が葉をかじられた時に発する成分、妊婦の尿から最初に発見された成分など、全部で19種類のフレグランス。これらの中から3種類を選んで調合し、身にまとうことで、言葉を介さずとも特定のターゲットに向けてメッセージを〈匂わせる〉ことができるという仕組みだ。来場者は説明書を読み、サンプルの匂いを嗅ぎ、そして香りのしずくを慎重に容器の中に落として、自分だけのお守り/魔除けとなる一本をつくり上げていったが、実はそれらの成分の多くは、今この瞬間にも地上のどこかで放散されているものであることを思いつつ、一人ひとりは静かに「ガ」や「コウモリ」や「人間」への擬態を遂げていった。

 そのフレグランスを自らに吹きかけ、展示会場へ。透明な硝子に覆われたドーム内には月明りがほんのりとさし、蛍のようなあえかな光が行く先をほつほつと照らしている。完全な闇ではないが、色彩はほとんど失われ、さまざまなフォルムの樹々もグレーの濃淡として溶けなじむように薄闇に葉を伸ばしている。そこにどこからともなく漂ってくるアンビエントな音楽、風、水蒸気、そして歩きはじめると随所に現われる匂い。それらは、〈出現する〉とか〈姿を現わす〉という言葉がふさわしいほど、質量があり、存在感があり、そして圧があった。

 視覚情報がすうっとトーンダウンしたことで、体を入れ替えるように嗅覚や聴覚が鮮明になってくる。肌感覚もいくらか鋭敏になる。なぜならここは夜の熱帯の森で、どこに自分(「ガ」や「コウモリ」や「人間」)にとっての天敵や味方が潜んでいるかわからないのである。

 いつの間にか自分は、生と死の匂いが濃密な領域に足を踏み入れており、自身もまた作品の一部として弱い風を生み、匂いの擦れ跡を残し、空気をわずかに混ぜていることに気づく。匂いそれ自体が微弱な磁力を伴っているような感覚に陥る。顕在的な要素は弱まり、潜在的な要素が強まった熱帯の森の中、わずかに不快な匂いのゾーンを通ると身体は小さな棘に触れたように緊張し、心地よい匂いに包まれるとふわっと緩むことを体感する。しかし、食虫植物のように、甘い匂いで消化機構の闇に誘いこむものもいることを思い出し、陶然としながらも畏怖を覚えるなど、身体の反応は刻々と微細に変化していった。

 やがて、今ここに匂いが漂っているということは、その匂いを発している何ものかが奥にいるのだ、と思い当たる。匂いを感受できる〈わたし〉に向けて声にならないメッセージを届けようとし、〈わたし〉と交信を試みている何ものかの存在をありありと感じはじめる。〈彼/彼ら〉がこの匂いの先で待っていることを、あるいはもう立ちさってしまったけれどかつてこの場所に存在していたことを。〈わたし〉は今この瞬間にいながら、予兆と余韻の世界の匂いを吸いこんでいるのだ。

 会場入り口の「ごあいさつ」のパネルの冒頭には、「嗅覚は離れたところのものを知覚する感覚だ。時間を引きのばして、来るものを前もって感じ取る。 ―ライアル・ワトソン―」という言葉が引かれていた。会場に入る前は未知であったその言葉が、会場を出るころには、親しみのある言葉に変わっていた。

 そして夜の植物館を後にする。自分たちは意識しなくても、いつも匂いのメッセージを発信しつづけ、本当の意味で匂いを捨てることは出来ないのだと思う。そしてこのインスタレーションが行なわれた地は、かつてのごみの埋め立て地・夢の島であることに思い当たる。捨てられないものたちの情報が、交信しあい連関する夢のような――これはまぎれもない現実の物語であるのだ。

Dog’s Nose

― 匂いの風景を記録・再生するバイオロギング・システム ―

Dog’s Nose は、ケミカル・センサーを装着した犬が匂いの風景(スメルスケープ)を記録し、それを後にデジタル制御された嗅覚再生システムによって再構成できる、多種バイオロギング・システムである。本プロジェクトは、環境センシングとデジタルメディアを組み合わせることで、嗅覚的環境を記録し共有する方法を探る。

犬の鼻の近くの空気は小さなチューブを通して採取され、リコーが開発した携帯型装置 FAIMS(Field Asymmetric Ion Mobility Spectrometry) に送られる。犬が周囲を自由に動き回るあいだ、空気中の分子パターンが測定され、デジタルデータへと変換される。犬の移動は一種のバイオロギングとなり、動物自身が環境センシングの多種間的な担い手として機能する。バイオロギング技術は、動物行動や環境条件をモニタリングするために生態学研究で広く用いられているが、Dog’s Nose はこのアプローチを感覚の記録へと拡張する。

収集されたケミカル・データは、時間軸に基づく嗅覚および視覚の再生システムにマッピングされ、犬が記録したスメルスケープを、時間軸を基に再構成する。これにより人間の観客は、犬が遭遇した環境を追体験することができる。

スメルスケープのデータはまた、空間軸の視点からも共有される。シンプル化された香りの表象が、マイクロカプセル技術を用いてフロアマップ上に印刷される。この触覚的インターフェースにより、あらゆる年齢の来場者が空間的にシミュレートされたスメルスケープを探索することができる。

また本プロジェクトには、犬の千代子が案内する参加型の都市散歩 「千代子ウォーク」 も含まれている。人間よりはるかに敏感な「野生の鼻」とともに歩くことで、参加者は匂いを通して都市を探索し、都市を化学的シグナルが交差するダイナミックな場として知覚する。

本プロジェクトは、現代のメディア・インフラに存在する欠陥にも着目する。すなわち、視覚や聴覚の環境は記録・再生が可能である一方で、嗅覚は環境知覚の基本的要素であるにもかかわらず、依然としてメディア技術の中でほとんど扱われていない。本プロジェクトは、嗅覚の環境を環境知として共有する、新たな方法を提案するものである。

千代子ウォーク

千代子とは上田の犬であるとともに、嗅覚の師匠でもある。このフェーズでは、千代子にリコー社のモバイル気体計測器「FAIMS」を装着し、嗅覚の赴くままに渋谷・原宿エリアを各2時間、計6時間歩いてもらった。

計測日 / エリア
2025年10月15日/ 渋谷〜代々木公園〜明治通り
2025年12月15日/ 原宿
2025年12月16日/ 代々木公園
2026年3月23日(予定)/  荻窪

FAIMSはいわば、「空気のスキャナー」。人間が嗅げる匂いも嗅げない匂いもごっそり吸い込み、空気質を計測する。犬もまた人間の何倍も嗅覚が優れているといわれる。このフロアでは、人間では体験し得ない街の「匂いのレイヤー」を、FAIMSと犬の力を借りて擬似体験できるよう設計した。

計測結果のインタラクティブな再生においては、デジタル噴霧技術(Aromashooter)を使用。そして、マイクロカプセルという技術で縮小版の地図に定着させて、フィジカルに遊べるようにした。世界に誇るべき日本の嗅覚技術がここに結集しているといえる。

再生・再現にあたっては、人間の嗅覚疲労と展示環境・規模を考慮し、データを特定の方法でデフォルメしている。視覚情報の再生においてはRGBのような「原色」があるが、嗅覚においては、再生のための「原臭」が明らかになっていない。そのためここでは、色のRGBになぞらえ、3種の「原臭」を設定している(同等分子量の香料を使用)。

千代子の嗅覚世界(時間軸)

トラックボールを回して、千代子の散歩を体験してみよう。
渋谷・原宿を計6時間歩いた「千代子ウォーク」の中から、空気質データの大きな変化と千代子の反応が強く結びついた7つの場面を選び出した。空気中の匂いを分子の大きさによって L・M・S に大まかに分類し、近い性質をもつ芳香分子で再現している。
(フロアマップに示された7つのポイントも参照)

表示名色での例え分子の大きさ 再生香料
大 (L)赤(Red)インドールなどの重い分子アニマリック・アンバー系
中 (M)緑(Green)中間.
人類が最も敏感で繊細に嗅げる分子量帯。
柑橘系・グリーン系
小 (S)青(Blue)小さい。人類には嗅ぎにくい、ほぼ「ガス」のような小さな分子量帯。水溶性の分子多め。オゾン系・マリン系

千代子の嗅覚世界(空間軸)

千代子が嗅覚の赴くままに歩いたルートを匂いで辿ってみよう! 匂いの変化がわかるかな? 
・靴を脱いで上がってください。
・赤い点線に匂いがついています。マットを這い、犬のようにクンクン嗅いでください。
・服に黒い色がつくことがありますのでご注意ください。
*AR版と同じ香りが使われています。

千代子ウォーク動画アーカイブ (人間による観察) 

人間の目から見て、千代子の行動が嗅覚の刺激によると思われたシーンを選び出して編集した。
(approx. 10 min.)

千代子ウォーク動画アーカイブ (データ+マルチカム) 

タイムラインでマルチカメラとFAIMSデータ、そしてGPSデータを統一。研究用。

結果・考察

展示では、観客になるべく「見て、嗅いで、再体験してもらう」いわゆる能動的な体験と考察を重要視したため、言葉による説明は極力避けた。

千代子の行動を観察した結果は以下の通り:
・人間は散歩する時、視覚により情報を得て行動を決めるが、千代子にとってはそれが嗅覚であった。よって人間にとっては何ら「映えない」ものに興味を示した。
・渋谷スクランブル交差点や竹下通りの人混みでは人がたくさんの匂いを運んでいると思われ、千代子の嗅覚が錯乱するのか、ひどく右往左往し、まっすぐ進むのが難しかった。
・都会には地面の排水溝の穴やビルの隙間などが多数あり、千代子はいちいちそこに興味を示した。
・各店舗の正面から流れてくる匂いをチェックするため、千代子は店舗にいちいち入って行こうとするため、明治通り沿いは特にまっすぐ進むのが難しかった。
・千代子が興味を示したのは、飲食店にとどまらず、ブランドショップや時計ショップ、雑居マンションなど多岐に渡った。
・千代子は、空気の入り乱れる「交差点」や「辻」においては、長時間滞留し、各方面から流れてくる空気を嗅いでいた。
・自由に歩かせてみたものの、それほど遠くに行くわけでもなく、一度通ったところを再びぐるぐる回るなど、「見回り」をうかがわせる。
・竹下通りにはカピバラカフェやピッグカフェ、サモエドカフェなどの動物カフェが多く存在し、入り口で「出待ち」することもあった。
・代々木公園ではきょろきょろせず、直線に歩くことが多かった。
・原宿に比べると、枯葉の特定のスポットに直進して枯葉を掘り返したり、穴を通過した後にUターンして穴を嗅いだり、嗅覚由来の行動と見られる行動がわかりやすかった。
・人間はお昼時にガーリックの匂いがすると魅力的に感じるものであるが、千代子の場合は特に興味関心がなさそうだった(明治神宮前交差点にて)

また、FAIMSの計測結果と、千代子の行動と結びつけたとき、以下のことが言える。
・渋谷駅周辺はアンモニアの数値が高い。(人、排気ガス、アスファルトなど様々な要因があるとのこと。)千代子の右往左往する行動に関係ある可能性もある。
・車通りの多い大通りでは大きな分子が計測される。これも千代子の右往左往する行動に関係ある可能性もある。
・日によるが、概ね代々木公園には軽めの分子が広がり、多くの変化があるわけではない。千代子も右往左往する行動は少なめで、わりとまっすぐ歩いた。一方で原宿は変化の起伏や種類が大きく、千代子の右往左往する行動と一致する。
・代々木公園では千代子の行動パターンとFAIMSの計測数値の変化が顕著に結びつくことも多かった。都市では他のさまざまな要因が介入しているとも考えられる。

これらの結果から、以下のことが考察できる。
・都市には人間に嗅げない匂いのレイヤーが広がる。
・穴や溝、ビルの間や自販機の裏など、人間には嗅げない匂いの滞留空間が都市には多数存在し、千代子のような犬はそういうところにこそ興味を示す。
・都市は、商業空間に固有の匂いがあり、匂いの戦場である。

リコー社氏本さんの専門的なレポートも参考にしてください。