FAIMSによる都市フィールドの嗅覚バイオロギング計測レポート

氏本勝也(株式会社リコー)

背景

本研究は、2025年度に実施されたプロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 ~メディウムとしての空気~)」におけるリサーチ活動の一環として行われたものである。本プロジェクトは、匂いを手がかりに、私たちが共有する空気を『コモンズ』として捉え直すことを目的としている。本研究では、犬の嗅覚行動とFAIMSによる移動計測を組み合わせ、都市空間における匂いの分布と知覚の関係を記録・考察した。

目的

本研究の目的は以下の三点である。

1. 犬の散歩という日常的行為を通じて、都市空間における匂い分子の空間分布および時間変動を可視化すること。

2. 犬の嗅覚行動とFAIMSによる計測データを比較し、匂い知覚プロセスに関する示唆を得ること。

3. 得られた知見を、『空気のコモンズ』や将来的な環境・災害探索への応用可能性として位置づけること。

方法

計測日、場所: 2025年12月15日:原宿、16日:代々木公園

【計測システム】

気体計測器:リコー FAIMS プロトβ 1号機

計測原理:Field Asymmetric Ion Mobility Spectrometry

計測モード:正イオンモード(アルカリ性成分を計測しやすい条件)

吸引流量:1 L/min

スペクトル取得頻度:1 Hz

FAIMSデータは、以下の成分・分子量帯の信号強度として整理した。

NH₃(アンモニア)、S:分子量 60–100 amu 帯、M:分子量 100–200 amu 帯

L:分子量 200–300 amu 帯

【移動計測および記録】

嗅覚的キャリア/媒介:千代子(柴犬・半陰陽)1頭

FAIMS吸引口を千代子の鼻先近傍に設置

計測場所:原宿周辺および代々木公園

GPS:スマートフォンアプリによる位置情報取得

映像記録:360°カメラ(RICOH THETA Z1)

千代子の行動(立ち止まる、走る、掘る等)と、FAIMS信号および位置情報を時系列で同期させ、解析を行った。

結果

【代々木公園における観測結果】

代々木公園東側入口付近および公園内部では、NH₃が比較的高い信号強度で広範囲に観測された。また、局所的にMおよびL帯の信号が顕著に増加するホットスポットが存在した。特に落ち葉が堆積したエリアでは、FAIMS信号が局所的に増加し、千代子が走行・掘削といった強い探索行動を示した。公園内で視界が開けた地点では、FAIMS信号の増加と千代子の探索行動が同時に観測され、風によって運ばれてきた分子に両者が同時に反応した可能性が示唆された。(動画の場所①)

【原宿における観測結果】

原宿周辺では、SおよびM帯の信号が比較的安定して観測された。一方、L帯の信号は一時的に上昇する短時間イベントとして散発的に出現した。千代子はブランド店、雑貨屋、カピバラカフェ、建物が入り組んだ辻などで数分間立ち止まることがあった。一方、千代子は一瞬立ち止まるものの、すぐに探索を打ち切り歩行を再開する行動が多く観察された。これらのイベントは短時間かつ局所的であり、匂いの発生源が移動している、あるいは人流・店舗由来の揮発成分が断続的に存在している状況を反映していると考えられる。

【全体的傾向】

取得されたデータから、NH₃およびS/M/L各成分は、都市空間内で一様に分布しているのではなく、場所ごとに特徴的な空間分布と時間変動を示すことが確認された。多くのイベントにおいて、NH₃の増加が先行し、その後にS/M/Lの信号が増加するという時間的な順序が観察された。

考察

【代々木公園と原宿の比較】

代々木公園では、自然由来の要素により匂いが空間に保持されやすく、安定した濃度勾配が形成されていた可能性がある。これにより、千代子は探索行動を継続し、FAIMS信号も局所的に高くなったと考えられる。

原宿では、人流や建物に由来する匂いが多様かつ断続的であり、匂い勾配が不安定であったと考えられる。そのため千代子は匂いを知覚しても探索を早期に打ち切った可能性がある。

両者を比較すると、匂いの強度そのものよりも、匂いが存在する『場の構造』が千代子にとっての嗅覚的意味付けに大きく影響していることが示唆される。

【空間構造と『嗅覚場』】

建物が入り組んだ辻では、FAIMS信号が瞬間的に高くなると同時に、千代子の探索行動が定まらない様子(数分立ち止まる)が観察された。これは、風向・乱流によって匂い勾配が不安定となる『嗅覚的カオス空間』の存在を示唆している。

一方、視界が開けた場所や落ち葉が堆積した場所では、風による分子輸送と吸着・再放出が生じ、千代子とFAIMSが同時に反応する状況が確認された。

【NH₃を起点とする二段階嗅覚モデル】

観測結果および千代子の行動から、以下のような嗅覚認知プロセスが示唆される。

・NH₃の濃淡による異常検知

NH₃は一般大気中にも微量に存在し、多様な発生源を持つため、その濃度勾配は『通常ではない状態』を検知するトリガーとして機能する可能性がある。

・S/M/Lによる匂いの質の識別

発生源に近づき、十分な濃度に達した段階で、分子量帯ごとのパターンが匂いの質的情報として利用される。

この二段階構造は、千代子の探索行動(知覚→走る→立ち止まる→掘る/無視する)と整合的であり、既知の興味のない匂いに対しては探索を打ち切る行動とも一致する。

【人の嗅覚閾値との比較】

NH₃に対する人の嗅覚閾値は約100 ppbとされている。今回の計測期間中のNH₃濃度の平均値は約17 ppb以下であったが、局所的には100–400 ppb程度に達する場面が確認された。これは、人には気づかれない微細な環境変化を、千代子が嗅覚刺激として知覚している可能性を示しており、FAIMSによる並行計測によってその一端を可視化できたと考えられる。

結論

本研究は、千代子の嗅覚行動とFAIMSによる移動計測を組み合わせることで、都市空間における匂いの時間的・空間的構造を捉える可能性を示した。特に、NH₃を起点とした異常検知と、S/M/Lによる匂いの質的識別という二段階モデルは、千代子の行動観察および計測データと整合的であり、嗅覚を『勾配探索とパターン認識の統合プロセス』として理解する視点を提供する。

今後の展開

千代子の行動指標とFAIMS信号の定量的対応付け、負イオンモード(酸性成分を計測しやすい)との同時計測、都市の空間構造と『嗅覚場』の深堀と心地よい環境づくりへの展開、災害探索や環境監視への応用、展示表現との統合も期待される。

参考文献

  1. Katsuya Ujimoto, Kunihiro Tan, Yoshihiko Miki, Akira Sugawa, Atsuo Hashimoto, Tomoki Nakayama, Performance evaluation of a newly developed portable FAIMS instrument for atmospheric trace gas detection, Journal of Environmental Management 395 (2025) 127758
  2. 氏本 勝也, 丹 国広, 三木 芳彦, 須川 明, 橋本 篤男, MEMS型イオン移動度スペクトロメトリを用いた化学物質のフィールド計測, においかおり環境学会誌, 2024 年 55 巻 5 号 p. 301-307
  3. 氏本勝也, 機械を通じて自然を嗅ぐという試み, 車載テクノロジー Vol.12, No.12 2025
  4. 東京都環境科学研究所NEWS 2026年6月 No.52, https://www.tokyokankyo.jp/kankyoken/wp-content/uploads/sites/5/2025/06/labo-news_52.pdf
  5. 環境省, 持続可能な窒素管理に関する行動計画, 

https://www.env.go.jp/press/press_03772.html

Giuseppina Oliva, Federico Cangialosi, Michele Grimaldi, Isidoro Fasolino, Vincenzo Belgiorno, Vincenzo Naddeo, Tiziano Zarra, Urban odour annoyance management: An advanced embedded system for real-time monitoring enhanced by citizen science, Case Studies in Chemical and Environmental Engineering 9 (2024) 100712