Dog’s Nose

― 匂いの風景を記録・再生するバイオロギング・システム ―

Dog’s Nose は、ケミカル・センサーを装着した犬が匂いの風景(スメルスケープ)を記録し、それを後にデジタル制御された嗅覚再生システムによって再構成できる、多種バイオロギング・システムである。本プロジェクトは、環境センシングとデジタルメディアを組み合わせることで、嗅覚的環境を記録し共有する方法を探る。

犬の鼻の近くの空気は小さなチューブを通して採取され、リコーが開発した携帯型装置 FAIMS(Field Asymmetric Ion Mobility Spectrometry) に送られる。犬が周囲を自由に動き回るあいだ、空気中の分子パターンが測定され、デジタルデータへと変換される。犬の移動は一種のバイオロギングとなり、動物自身が環境センシングの多種間的な担い手として機能する。バイオロギング技術は、動物行動や環境条件をモニタリングするために生態学研究で広く用いられているが、Dog’s Nose はこのアプローチを感覚の記録へと拡張する。

収集されたケミカル・データは、時間軸に基づく嗅覚および視覚の再生システムにマッピングされ、犬が記録したスメルスケープを、時間軸を基に再構成する。これにより人間の観客は、犬が遭遇した環境を追体験することができる。

スメルスケープのデータはまた、空間軸の視点からも共有される。シンプル化された香りの表象が、マイクロカプセル技術を用いてフロアマップ上に印刷される。この触覚的インターフェースにより、あらゆる年齢の来場者が空間的にシミュレートされたスメルスケープを探索することができる。

また本プロジェクトには、犬の千代子が案内する参加型の都市散歩 「千代子ウォーク」 も含まれている。人間よりはるかに敏感な「野生の鼻」とともに歩くことで、参加者は匂いを通して都市を探索し、都市を化学的シグナルが交差するダイナミックな場として知覚する。

本プロジェクトは、現代のメディア・インフラに存在する欠陥にも着目する。すなわち、視覚や聴覚の環境は記録・再生が可能である一方で、嗅覚は環境知覚の基本的要素であるにもかかわらず、依然としてメディア技術の中でほとんど扱われていない。本プロジェクトは、嗅覚の環境を環境知として共有する、新たな方法を提案するものである。

千代子ウォーク

千代子とは上田の犬であるとともに、嗅覚の師匠でもある。このフェーズでは、千代子にリコー社のモバイル気体計測器「FAIMS」を装着し、嗅覚の赴くままに渋谷・原宿エリアを各2時間、計6時間歩いてもらった。

計測日 / エリア
2025年10月15日/ 渋谷〜代々木公園〜明治通り
2025年12月15日/ 原宿
2025年12月16日/ 代々木公園
2026年3月23日(予定)/  荻窪

FAIMSはいわば、「空気のスキャナー」。人間が嗅げる匂いも嗅げない匂いもごっそり吸い込み、空気質を計測する。犬もまた人間の何倍も嗅覚が優れているといわれる。このフロアでは、人間では体験し得ない街の「匂いのレイヤー」を、FAIMSと犬の力を借りて擬似体験できるよう設計した。

計測結果のインタラクティブな再生においては、デジタル噴霧技術(Aromashooter)を使用。そして、マイクロカプセルという技術で縮小版の地図に定着させて、フィジカルに遊べるようにした。世界に誇るべき日本の嗅覚技術がここに結集しているといえる。

再生・再現にあたっては、人間の嗅覚疲労と展示環境・規模を考慮し、データを特定の方法でデフォルメしている。視覚情報の再生においてはRGBのような「原色」があるが、嗅覚においては、再生のための「原臭」が明らかになっていない。そのためここでは、色のRGBになぞらえ、3種の「原臭」を設定している(同等分子量の香料を使用)。

千代子の嗅覚世界(時間軸)

トラックボールを回して、千代子の散歩を体験してみよう。
渋谷・原宿を計6時間歩いた「千代子ウォーク」の中から、空気質データの大きな変化と千代子の反応が強く結びついた7つの場面を選び出した。空気中の匂いを分子の大きさによって L・M・S に大まかに分類し、近い性質をもつ芳香分子で再現している。
(フロアマップに示された7つのポイントも参照)

表示名色での例え分子の大きさ 再生香料
大 (L)赤(Red)インドールなどの重い分子アニマリック・アンバー系
中 (M)緑(Green)中間.
人類が最も敏感で繊細に嗅げる分子量帯。
柑橘系・グリーン系
小 (S)青(Blue)小さい。人類には嗅ぎにくい、ほぼ「ガス」のような小さな分子量帯。水溶性の分子多め。オゾン系・マリン系

千代子の嗅覚世界(空間軸)

千代子が嗅覚の赴くままに歩いたルートを匂いで辿ってみよう! 匂いの変化がわかるかな? 
・靴を脱いで上がってください。
・赤い点線に匂いがついています。マットを這い、犬のようにクンクン嗅いでください。
・服に黒い色がつくことがありますのでご注意ください。
*AR版と同じ香りが使われています。

千代子ウォーク動画アーカイブ (人間による観察) 

人間の目から見て、千代子の行動が嗅覚の刺激によると思われたシーンを選び出して編集した。
(approx. 10 min.)

千代子ウォーク動画アーカイブ (データ+マルチカム) 

タイムラインでマルチカメラとFAIMSデータ、そしてGPSデータを統一。研究用。

結果・考察

展示では、観客になるべく「見て、嗅いで、再体験してもらう」いわゆる能動的な体験と考察を重要視したため、言葉による説明は極力避けた。

千代子の行動を観察した結果は以下の通り:
・人間は散歩する時、視覚により情報を得て行動を決めるが、千代子にとってはそれが嗅覚であった。よって人間にとっては何ら「映えない」ものに興味を示した。
・渋谷スクランブル交差点や竹下通りの人混みでは人がたくさんの匂いを運んでいると思われ、千代子の嗅覚が錯乱するのか、ひどく右往左往し、まっすぐ進むのが難しかった。
・都会には地面の排水溝の穴やビルの隙間などが多数あり、千代子はいちいちそこに興味を示した。
・各店舗の正面から流れてくる匂いをチェックするため、千代子は店舗にいちいち入って行こうとするため、明治通り沿いは特にまっすぐ進むのが難しかった。
・千代子が興味を示したのは、飲食店にとどまらず、ブランドショップや時計ショップ、雑居マンションなど多岐に渡った。
・千代子は、空気の入り乱れる「交差点」や「辻」においては、長時間滞留し、各方面から流れてくる空気を嗅いでいた。
・自由に歩かせてみたものの、それほど遠くに行くわけでもなく、一度通ったところを再びぐるぐる回るなど、「見回り」をうかがわせる。
・竹下通りにはカピバラカフェやピッグカフェ、サモエドカフェなどの動物カフェが多く存在し、入り口で「出待ち」することもあった。
・代々木公園ではきょろきょろせず、直線に歩くことが多かった。
・原宿に比べると、枯葉の特定のスポットに直進して枯葉を掘り返したり、穴を通過した後にUターンして穴を嗅いだり、嗅覚由来の行動と見られる行動がわかりやすかった。
・人間はお昼時にガーリックの匂いがすると魅力的に感じるものであるが、千代子の場合は特に興味関心がなさそうだった(明治神宮前交差点にて)

また、FAIMSの計測結果と、千代子の行動と結びつけたとき、以下のことが言える。
・渋谷駅周辺はアンモニアの数値が高い。(人、排気ガス、アスファルトなど様々な要因があるとのこと。)千代子の右往左往する行動に関係ある可能性もある。
・車通りの多い大通りでは大きな分子が計測される。これも千代子の右往左往する行動に関係ある可能性もある。
・日によるが、概ね代々木公園には軽めの分子が広がり、多くの変化があるわけではない。千代子も右往左往する行動は少なめで、わりとまっすぐ歩いた。一方で原宿は変化の起伏や種類が大きく、千代子の右往左往する行動と一致する。
・代々木公園では千代子の行動パターンとFAIMSの計測数値の変化が顕著に結びつくことも多かった。都市では他のさまざまな要因が介入しているとも考えられる。

これらの結果から、以下のことが考察できる。
・都市には人間に嗅げない匂いのレイヤーが広がる。
・穴や溝、ビルの間や自販機の裏など、人間には嗅げない匂いの滞留空間が都市には多数存在し、千代子のような犬はそういうところにこそ興味を示す。
・都市は、商業空間に固有の匂いがあり、匂いの戦場である。

リコー社氏本さんの専門的なレポートも参考にしてください。

FAIMSによる都市フィールドの嗅覚バイオロギング計測レポート

氏本勝也(株式会社リコー)

背景

本研究は、2025年度に実施されたプロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 ~メディウムとしての空気~)」におけるリサーチ活動の一環として行われたものである。本プロジェクトは、匂いを手がかりに、私たちが共有する空気を『コモンズ』として捉え直すことを目的としている。本研究では、犬の嗅覚行動とFAIMSによる移動計測を組み合わせ、都市空間における匂いの分布と知覚の関係を記録・考察した。

目的

本研究の目的は以下の三点である。

1. 犬の散歩という日常的行為を通じて、都市空間における匂い分子の空間分布および時間変動を可視化すること。

2. 犬の嗅覚行動とFAIMSによる計測データを比較し、匂い知覚プロセスに関する示唆を得ること。

3. 得られた知見を、『空気のコモンズ』や将来的な環境・災害探索への応用可能性として位置づけること。

方法

計測日、場所: 2025年12月15日:原宿、16日:代々木公園

【計測システム】

気体計測器:リコー FAIMS プロトβ 1号機

計測原理:Field Asymmetric Ion Mobility Spectrometry

計測モード:正イオンモード(アルカリ性成分を計測しやすい条件)

吸引流量:1 L/min

スペクトル取得頻度:1 Hz

FAIMSデータは、以下の成分・分子量帯の信号強度として整理した。

NH₃(アンモニア)、S:分子量 60–100 amu 帯、M:分子量 100–200 amu 帯

L:分子量 200–300 amu 帯

【移動計測および記録】

嗅覚的キャリア/媒介:千代子(柴犬・半陰陽)1頭

FAIMS吸引口を千代子の鼻先近傍に設置

計測場所:原宿周辺および代々木公園

GPS:スマートフォンアプリによる位置情報取得

映像記録:360°カメラ(RICOH THETA Z1)

千代子の行動(立ち止まる、走る、掘る等)と、FAIMS信号および位置情報を時系列で同期させ、解析を行った。

結果

【代々木公園における観測結果】

代々木公園東側入口付近および公園内部では、NH₃が比較的高い信号強度で広範囲に観測された。また、局所的にMおよびL帯の信号が顕著に増加するホットスポットが存在した。特に落ち葉が堆積したエリアでは、FAIMS信号が局所的に増加し、千代子が走行・掘削といった強い探索行動を示した。公園内で視界が開けた地点では、FAIMS信号の増加と千代子の探索行動が同時に観測され、風によって運ばれてきた分子に両者が同時に反応した可能性が示唆された。(動画の場所①)

【原宿における観測結果】

原宿周辺では、SおよびM帯の信号が比較的安定して観測された。一方、L帯の信号は一時的に上昇する短時間イベントとして散発的に出現した。千代子はブランド店、雑貨屋、カピバラカフェ、建物が入り組んだ辻などで数分間立ち止まることがあった。一方、千代子は一瞬立ち止まるものの、すぐに探索を打ち切り歩行を再開する行動が多く観察された。これらのイベントは短時間かつ局所的であり、匂いの発生源が移動している、あるいは人流・店舗由来の揮発成分が断続的に存在している状況を反映していると考えられる。

【全体的傾向】

取得されたデータから、NH₃およびS/M/L各成分は、都市空間内で一様に分布しているのではなく、場所ごとに特徴的な空間分布と時間変動を示すことが確認された。多くのイベントにおいて、NH₃の増加が先行し、その後にS/M/Lの信号が増加するという時間的な順序が観察された。

考察

【代々木公園と原宿の比較】

代々木公園では、自然由来の要素により匂いが空間に保持されやすく、安定した濃度勾配が形成されていた可能性がある。これにより、千代子は探索行動を継続し、FAIMS信号も局所的に高くなったと考えられる。

原宿では、人流や建物に由来する匂いが多様かつ断続的であり、匂い勾配が不安定であったと考えられる。そのため千代子は匂いを知覚しても探索を早期に打ち切った可能性がある。

両者を比較すると、匂いの強度そのものよりも、匂いが存在する『場の構造』が千代子にとっての嗅覚的意味付けに大きく影響していることが示唆される。

【空間構造と『嗅覚場』】

建物が入り組んだ辻では、FAIMS信号が瞬間的に高くなると同時に、千代子の探索行動が定まらない様子(数分立ち止まる)が観察された。これは、風向・乱流によって匂い勾配が不安定となる『嗅覚的カオス空間』の存在を示唆している。

一方、視界が開けた場所や落ち葉が堆積した場所では、風による分子輸送と吸着・再放出が生じ、千代子とFAIMSが同時に反応する状況が確認された。

【NH₃を起点とする二段階嗅覚モデル】

観測結果および千代子の行動から、以下のような嗅覚認知プロセスが示唆される。

・NH₃の濃淡による異常検知

NH₃は一般大気中にも微量に存在し、多様な発生源を持つため、その濃度勾配は『通常ではない状態』を検知するトリガーとして機能する可能性がある。

・S/M/Lによる匂いの質の識別

発生源に近づき、十分な濃度に達した段階で、分子量帯ごとのパターンが匂いの質的情報として利用される。

この二段階構造は、千代子の探索行動(知覚→走る→立ち止まる→掘る/無視する)と整合的であり、既知の興味のない匂いに対しては探索を打ち切る行動とも一致する。

【人の嗅覚閾値との比較】

NH₃に対する人の嗅覚閾値は約100 ppbとされている。今回の計測期間中のNH₃濃度の平均値は約17 ppb以下であったが、局所的には100–400 ppb程度に達する場面が確認された。これは、人には気づかれない微細な環境変化を、千代子が嗅覚刺激として知覚している可能性を示しており、FAIMSによる並行計測によってその一端を可視化できたと考えられる。

結論

本研究は、千代子の嗅覚行動とFAIMSによる移動計測を組み合わせることで、都市空間における匂いの時間的・空間的構造を捉える可能性を示した。特に、NH₃を起点とした異常検知と、S/M/Lによる匂いの質的識別という二段階モデルは、千代子の行動観察および計測データと整合的であり、嗅覚を『勾配探索とパターン認識の統合プロセス』として理解する視点を提供する。

今後の展開

千代子の行動指標とFAIMS信号の定量的対応付け、負イオンモード(酸性成分を計測しやすい)との同時計測、都市の空間構造と『嗅覚場』の深堀と心地よい環境づくりへの展開、災害探索や環境監視への応用、展示表現との統合も期待される。

参考文献

  1. Katsuya Ujimoto, Kunihiro Tan, Yoshihiko Miki, Akira Sugawa, Atsuo Hashimoto, Tomoki Nakayama, Performance evaluation of a newly developed portable FAIMS instrument for atmospheric trace gas detection, Journal of Environmental Management 395 (2025) 127758
  2. 氏本 勝也, 丹 国広, 三木 芳彦, 須川 明, 橋本 篤男, MEMS型イオン移動度スペクトロメトリを用いた化学物質のフィールド計測, においかおり環境学会誌, 2024 年 55 巻 5 号 p. 301-307
  3. 氏本勝也, 機械を通じて自然を嗅ぐという試み, 車載テクノロジー Vol.12, No.12 2025
  4. 東京都環境科学研究所NEWS 2026年6月 No.52, https://www.tokyokankyo.jp/kankyoken/wp-content/uploads/sites/5/2025/06/labo-news_52.pdf
  5. 環境省, 持続可能な窒素管理に関する行動計画, 

https://www.env.go.jp/press/press_03772.html

Giuseppina Oliva, Federico Cangialosi, Michele Grimaldi, Isidoro Fasolino, Vincenzo Belgiorno, Vincenzo Naddeo, Tiziano Zarra, Urban odour annoyance management: An advanced embedded system for real-time monitoring enhanced by citizen science, Case Studies in Chemical and Environmental Engineering 9 (2024) 100712