アンフラマンスとのコラボレーション。5段階のテキスチャーの化粧水と、5段階のテキスチャーの乳液。その日の肌の状態に合わせて使い分ける、触覚的な基礎化粧品です。
アンフラマンス | チルダ
inframince.inc | t i l d e _
「肌から環境へ / 触れる:触覚からのデザイン」触れるという行為から気付く世界。日常の延長線上で新たな知覚体験を得ることが、新たな思考が生まれる契機となり、創造的な生活のきっかけとなりうると考えたところから、プロジェクトがスタート。クリエイティブ・ディレクションにPANTALOON、調香にアーティスト、上田麻希を迎え、開発した基礎化粧品「 t i l d e _ 」を軸に、"触れる"ことで感じられる、さまざまな思考の断片をシェアする。
perfume _ tilde_
嗅覚のアーティスト・上田麻希氏を迎え調香された香りのイメージは「skin tone 」。甘すぎず、どこか懐かしくて、さり気ない“凛とした香りです。
アンフラマンス / inframince.inc (http://inframince.jp)
「肌からはじまる身体をとりまく環境」をコンセプトに、基礎化粧を基点として生活・日常に寄り添い、自己に向き合う”きっかけ”となるアイテムを開発、提案する企業。アンフラマンスとはマルセル・デュシャンのよる造語。
上田麻希 Maki Ueda (http://www.ueda.nl/)
オランダ在住アーティスト。嗅覚とアートの融合を試み、匂いをメディウムとして作品を制作。
チルダに寄せて 〜「にほい」〜 上田麻希
匂いは、時に、時空を超えた予期せぬ場面に連れて行く。そして、その時、感じた個々の感情をそのまま再体験させてくれることがある。 古代の日本の感性を、現代の私たちに伝えてくれる「万葉集」を紐解くと、四季の移ろいや風景を”匂い”で感じ捉える様は今も昔も同じである。
万葉集のある歌に
“春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ少女(をとめ)「大伴家持」” とある。
意味:春の苑は桃の花で紅に輝いている。その下に立つ少女も輝いて見える。
この歌のイメージの通り、桃の花は満開で、あたりがその芳香に満たされている。その下に立つ女性の頬が桃の花の紅色に照らされ、女性本来の仄かに赤らんだ頬の色と重なり合い、その女性は一切化粧をしていないのに、紅の「色香」を贅沢に装っている。
BRIEF
PERFUME FOR INFRAMINCE COSMETICS
10.08.07.
MAKI UEDA
匂いを嗅いでふと、むかしの記憶にタイムトリップする --- そんな体験をしたことはないだろうか。匂いはしばしば私たちを、時空を超えた予期せぬ場面に連れて行く。そして、「気持ちいい」「切ない」などの、そのとき感じた感情をそのまま再体験させてくれる。
では、わたしたちの潜在意識、あるいはDNAの奥深いところにこのように働きかける匂いは、はたして存在するのだろうか。「嗅いだことあるようなないような、なんとなく懐かしい匂い」である。それはいったいどのような匂いなのだろうか。
具体的にいうと、日本の「匂いの風景」といったものを心象に描くような匂いである。何千年もの昔から今現在、そして未来へと、普遍的に共通する心象風景ともいえる。
古代の日本の感性を現代の私たちに伝えてくれる「万葉集」を紐解いてみると、四季の移ろいを匂いで感じ、匂いをある種の風景のように捉えるわれわれ日本人の感性は、今も昔も同じであることがわかる。このような普遍的なオルファクション(嗅覚体験)を探るひとつのレファレンスとして、万葉集のある歌をひとつのレファレンスとして挙げ、その芳香をイメージしてみたい。
春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ少女(をとめ)
(大伴家持)
意味:
春の苑は桃の花で紅に輝いている。その下に立つ少女も輝いて見える。
解説:
- 「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
- 日本の化粧は古来より、黒・白・赤が基本であった。白粉の白地をベースに、髪・お歯黒・眉墨の黒でコントラストを表し、紅で色づけした。「紅化粧」といわれるように、化粧において使われた唯一の色彩であった。紅色は悪い霊を取り除く、神聖な色とされた。
- 桃の木は、災厄を払ってくれる仙木でもある。
匂いのイメージ:
こんなシーンを想像してみたい。
桃の花は満開。辺りがその芳香に満たされている。その下に立つ女性(不特定の年齢の)の頬が桃の花の紅色に照らされ、女性本来の仄かに赤らんだ頬の色と重なり合う。もはやその紅色は、桃の花の照りなのかその女性の頬の本来の色なのか、どちらとも区別がつかない。その女性は一切化粧をしてないのに、こうして紅の「色香」を贅沢に装っている。
「にほい」という言葉は本来、紅色のきれいな発色の様を表現するものだった。昔の人は色と匂いを、明瞭に分かれたものでない、ひとつのものとして受け取っていたようである。この歌を例にその感覚を現代語に訳し直すと「桃の花の色がニオってくる」そんなニュアンスになるだろうか。現代ではそのような知覚の方法を共感覚と呼んでいる。
「桃の花」の匂いの化粧品を装う事で、色も装う。そんな共感覚的なイメージを抱くような豊かな感性を、現代の私たちも育むことができればと願う。